農業のイメージを変えるスーツ農家 サイトウキヨトがつくる「家福来米」

スーツを着て農業する齋藤聖人。 彼がつくる「家福来米(かぶらまい)」は、食べるお家に福が来るお米。

いざ、小松の地名とは???

おばんです!!!

今日は農協青年部の検討会の後、実はお隣米沢市さんのカラオケに行って参りまして、飲み放題の末に只今帰って参りました所です。。。笑

そんな訳で、早速昨日の続きになりますが、僕が住む川西町の『 小松 』という地名について調べてみました!!!

しかし…どうも『コレだー!!!』という説が見つからないままだったのですが、その中でも一つインターネットの文章を引用させて頂きます。

因みにこれは石川県の『小松市』の由来なのですが…

 小松市の「小松」という名称の由来について、「平安時代中頃に花山法皇がこの地を巡幸された時、館を建てて周囲に松を植えられた」という伝承(小松原伝説)にもとづく説がある。

 しかし、これは大変な間違いである。この話は、大阪東淀川区小松の例にもあるが、菅原道真漢詩集(菅家文草)を種に江戸時代になって創作された俗説である。

 花山法皇は、実際には近畿地方からほとんど出られたことはなく、ましてや伝説のように東国・関東一円をはじめ北陸の地を巡られたことは一度もなかった。花山法皇伝説の多くは、公家の花山院家のお墨付きを得て全国を巡った、三十三度行者によって流布されたものである。

 地名「小松」の由来は、むしろこの地に平安末期の仁安二年(一一六七)から戦国時代の天正年間初めまで存在した、平重盛(小松内大臣)建立の名刹「小松寺」にちなむとする説が、歴史的に正しい。往年の小松寺を継承する寺院が現在小松市東町にある「小松山佛徳院法界寺」であると、寺伝に記載されている。

 重盛は「小松殿」と称され、仏道にことのほか深く帰依し、諸国で数多くの寺院を建立ないし再興したという。それを証明するように、重盛の「小松寺」あるいは「重盛公所縁の寺」として、今日もなお各地に存在している。越前国知行国主であった重盛は、安元二年(一一七六)に白山山頂の奥之院と別山に本地仏として銅造十一面観音菩薩像を寄進安置している。

 加賀国小松寺の文献上の初見は、『南禅寺慈聖院文書』(『加越史料』鎌倉Ⅱ)にある「徳治三年(一三〇八)五月二日付文書」で、「小松上総房圓勝」とあるのがそれである。現在も福山市鞆の浦にある重盛公所縁の小松寺が「小松」と呼称されたように、加賀国小松寺も名刹ゆえに、単に「小松」とも言われた。江戸初期に刊行された『明智軍記』には、明らかに「小松」を「小松寺」と記載されている。

 しかし、後に『明智軍記』のこの箇所を参照した『越登加三州志』では寺の字を故意に削除し記載している。

 仏教寺院は、所在地の通称(地名)を山号にすることはあっても、そのまま寺号にすることはほとんどない。小松寺が存在し、そこから「小松」の地名が派生したのは明白で、自然な成り行きである。

 一向一揆の時代は「小松寺城」として、一向一揆勢の城砦であった「小松寺」は、天正年間の初めに信長軍団の猛攻により壊滅し、灰塵に帰した。

まもなく平城として再建されたのが「小松城」であり、その城下が後に城下町の「小松町」となったのである。今日の稚松校下一帯は小松寺の寺領であって、堀川や土塁、塀垣などに囲われた寺内町のようであったと推定できる。

 江戸時代を通じてここを拝領した前田家の都合で、他の一向一揆の遺跡と共に、「小松寺」の名称と存在そのものが正式の歴史記録から抹消されたのである。同時期に消滅した「本折城」は再建されることがなく歴史に埋もれてしまったが、地名として残った。同時代に、大聖寺も小松の場合と似た経緯で寺号が城下町の名称になったのであるが、大聖寺の方は結果的に地名から寺という字がとれなかった。江戸時代の元禄初年に「今後は大正持と書くように」という通達があえて出されていたが、いつの間にか以前の大聖寺にもどってしまった。

 隠居して小松に城を構えた従三位中納言前田利常が、自らを「小松黄門」と称していたのは、重盛が「小松内府」と称されていたことを強く意識していて、自分自身も同じ「従二位小松内府」になることを望んで他日を期していた、と考えられなくはない。徳川家康は従二位内府であった。

 江戸時代までの人々は「小松」と聞くと、平家の小松内大臣重盛やその嫡男の小松三位平維盛のことを想起するのが普通であった。また、「しほらしき名や小松ふく萩すすき」と、小松家と深い絆のあった平家郎党の一人、平宗清を先祖とする芭蕉翁が、『おくの細道』の途上、小松の地で詠じたのは、当時すでに城下町の名称になっていたこの「小松」に、平氏の小松家の人々、重盛・維盛・六代などを想い、悲哀とか無常といったさまざまな情趣を強く感じたからではないだろうか。

という訳で…恐らく平家に関係があることから『小松』という地名になったのかと思われるのですが…いかんせんはっきりした事を述べることができず申し訳ありません!

とりあえずは…川西町の小松の平家様にご縁があったということで。。。

明日からは平家様を意識して生活してみようと思います!!!笑

そんなこんなで…すみませんが今日は寝落ちそうなのでこの辺で失礼させて頂きます!

訳分からん内容ですみませんでした!

本日も最後まで読んで頂きありがとうございました!!!

それでは次回つづく!です!

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