農業のイメージを変えるスーツ農家 サイトウキヨトがつくる「家福来米」

スーツを着て農業する齋藤聖人。 彼がつくる「家福来米(かぶらまい)」は、食べるお家に福が来るお米。

今日は迎え盆ですね!!!

おばんです!!!

そしておぼんです!!!

という訳で渾身の韻を踏んだところで、今日は午後から草刈を行ったあと、ご先祖様をお迎えにお墓参りに行って参りました!

因みに、齋藤家ではお迎えに行く場所が2か所あります。

一つは皆様お馴染みの公園墓地なのですが、もう一か所は…

IMG_2221.jpg

コチラ!

流石に内部写真を撮るのは失礼かと思いまして、ちょっと離れた位置からですが、このおーーーーーーきな栗の木の下に齋藤家先祖のお墓がありまして、墓石が20程建っております。

小さな頃からお墓参りは2か所行くことが当たり前になっていたのですが、大人になった今ふと疑問に思いじいちゃん大先生に聞いたところ、こちらのお墓はだいぶ昔のご先祖様たちが眠っているお墓だそうで、昔は各家庭のお墓が点在していたそうです。

ということで早速お墓のレキシについて調べてみたのですが、そもそも日本においては縄文時代から死者を埋葬する習慣があり、弥生時代には甕棺・木棺・石棺などに納め、埋葬されるようになったそうです。

そしてレキシの教科書でお馴染みの古墳時代には仁徳天皇陵に代表されるような、権力者の巨大な古墳が建造されるようになりました。

7世紀の大化の改新では『薄葬令』とよばれる詔が出され、葬儀や墓について細かく身分ごとに定められます

。その後は鎌倉時代から室町時代にかけて、位牌と戒名が中国から伝わりました。その影響もあってか、位牌型の板碑や今日の墓石に近い角柱型のものも作られるようになったそうです。

そして江戸時代になると人々はいずれかの寺の檀家として登録させられるようになり、いわゆる檀家(寺請)制度がはじまりました。

明治に入ると公園型の墓地が設けられるようになり、その後は次々に公園型の墓地がつくられます。戦後、昭和23年にお墓に関する法律である「墓地埋葬等に関する法律」(墓埋法)が施行されます。

つまりこの時代以前のお墓が先程の栗の木の下のお墓のようで、お墓を集積させる際、以前のお墓を掘り返して埋葬しなおすということは流石にできない。

ということもあり、今のような2か所お墓ができたようです。

現代では少子高齢化問題や土地の減少などから、ネットの中のお墓など、様々なカタチのお墓もできてきているようですね。

という訳で大分ネットを参照させて頂きましたが、今僕達が行くお墓というものはこのような流れでできたようです。

先程の写真ですが、僕も子供の頃は秋になるとよくこの場所に行って、栗を一生懸命獲って家に持ち帰り、栗ごはんを作ってもらって食べた思い出があります。

齋藤家を継ぐ決心をした今、これからは僕もこちらのお墓もしっかり守っていかねばと思いました!

今日から何日かは齋藤家の中にご先祖様達がいらっしゃいます。

先祖代々守ってきた田んぼ。

皆様に失望されることの無いよう、明日からまた気持ちを入れなおして農作業に取り組んでいかねばです!

本日も最後まで読んで頂きありがとうございました!!!

それでは次回つづく!です!

※このブログは齋藤聖人の名前でFacebook等でもアップしています。

お読み頂いた方でシェアしていただければとてもありがたいです!

是非宜しくお願い致します!